井川ヒロトのブログ

志について探求を続ける 井川 ヒロト が、ニュース・社会・政治・教育・作品(映画、演劇、インプロ、音楽、本、DVD、TV番組・ラジオ)などについて思った事を綴ります。※記事の内容は執筆者個人の見解であり、所属団体の公式見解ではありません。

佐村河内氏の是非と考察

神山氏追及で佐村河内氏が義手少女に謝る

http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20140308-1267264.html

 

 

まず、私の立場を説明すると、佐村河内氏とは縁もゆかりもない。

唯一あるとすれば、私はフィギュアスケートを見るのが好きだが、高橋大輔選手の曲として使われたということは聞いたが、どんな曲だったか思い出そうとしても思い出せない。そのくらいの関係。

 

なぜはじめにこんなこと書いたかというと、世間の声とは違う角度で考えを書きたいから。

 

この記事内容は、ともすれば佐村河内氏の擁護とも思われるかもしれないが、別に擁護する義理も何もない、単に「理屈としてどうなの?」って事を書きたい(しかも今時点で分かってることで)ってことを伝えるため。

 

 

 

では、本論。

論点は3つある。

①他の作詞家、作曲家はゴーストライターを使ってないのか?

②演奏に感動したのではないのか?

③謝ればいいのか?

 

 

①他の作詞家、作曲家はゴーストライターを使ってないのか?

有名なアイドルやミュージシャンも含め、「作詞」や「作曲」のクレジットに名前が書かれている人が、その全てを書いているのだろうか?

音楽に限らず、小説だってそうだろう。

「作詞家」「作曲家」がなんにもやっていないことはまれだろうが、簡単なデモテープやニュアンスやテーマをアシスタントやゴーストライターに提示して、「彼ら」が実は仕上げているなんてことは「よくあること」であると、我々一般人でも認識しているのではないのか。

 

 

じゃあ、みんなやっているんだったら良いのか?っていうとダメでしょう。

 

別に佐村河内氏のやってることが良いって言いたいのではなく、批判されるべきは彼だけではないのではないか?ってこと。

 

 

 

②演奏に感動したのではないのか?

これは、私が言った言葉ではなく、佐村河内氏を批判している急先鋒のノンフィクション作家、神山典士氏の言葉。

 

私は、この神山氏の発言は、奇しくも佐村河内氏を肯定することになっているのではないかと思う。

 

つまり神山氏が言っているのは、人々は演奏の内容に感動したのであって、奏者の障がいを乗り越えた云々を持ち出して感動を演出しようとした佐村河内氏の考えは間違いだということだ。

 

もしこの神山氏の発言が正しいとすると、佐村河内氏の音楽を買った人は、演奏が素晴らしいから買ったのであって、佐村河内氏が障がいを乗り越えた云々は関係ないということになる。

 

 

彼が作曲したとされる曲を買った人は、純粋に曲に感動したからかったというのであれば、①で書いたことと同様、「彼だけが怒られるんで良いの?」って思う。

 

それと、新垣隆氏が実際には書いたとはいえ、佐村河内氏がいなければ、そもそもその曲は生まれていなかったことは確かなわけで、「聴覚障がい者の作曲家じゃなかったらそもそもこのCD買ってなかった」といって、その曲を聴いて得た「感動」まで否定してしまうことは悲しくないだろうか?

 

 

 

以下、記者会見での佐村河内氏と神山典士氏のやり取り。

nikkansports.com掲載記事より一部抜粋)

 

神山氏 なぜあなたは、義手を外して舞台に出ろと言ったのか?

 

佐村河内氏 お客さんには誰も言わないサプライズの計画だったので、義手のみっくんが出てくれば、みんなが感動してくれると思いました。

 

神山氏 彼女の義手を利用して観客を感動させようとしたわけですか?

 

佐村河内氏 (少し沈黙)感動すると思います。

 

神山氏 舞台の上で義手をつければ感動する?

 

佐村河内氏 僕はとにかくみっくんがハンディを乗り越えて舞台に上がって、とても温かい拍手をいただいたと聞いています。

 

神山氏 彼女の演奏に感動するのでは? あなたは義手であることを見せようとしただけですよね?

 

佐村河内氏 違います。

 

 

③謝ればいいのか?

今回の記者会見を受けて、メディアの反応は、「最初こそ謝罪をしたものの、終始反論を繰り返した」だった。

 

もちろん、嘘ついちゃダメだと思うんだけれど、その人の状況をその人なりに説明することはそんなにダメなの?

とりあえず30秒くらいずっと頭下げ続けてれば良かったの?

 

 

僕は日本にある大和言葉っていうか、ニッポンの「こうあるべき」という正議論は嫌いじゃない。

 

でもそれだけで良いの?って思う。

 

僕はこの片手落ちの、日本の正義に対する価値観が好きじゃない。

 

どんなに理屈を積み上げていこうが、空気を読んで、「嫌だから」やらない。

異なる価値観の人同士が話し合うから、理屈や理論ってものが大切で必要なのに、そういうものをあまりにも軽視しすぎる。

 

そうなると、結局はある権力者の、あるいは多数派の「なんとなくヤダ」で結論を出して、言い訳のように説明のための理屈を後からつけることになる。理屈なんて、つけようと思えば大体のことにはつけられるのだ。

 

僕はマイノリティの意見を拾い上げられない、異なる価値観を許容できない、あるいは、権力者の恣意で物事が判断される。こうした世の中が良いとは思わない。

 

何故なら、それはマイノリティの立場に置かれた人にとっては不条理であり、また誰もがいつそのマイノリティの状況に置かれるか分からないから。

 

 

話しを佐村河内氏にもどすと、新垣隆氏の話しとずれがあり、真相は我々には分からないが、では疑いが掛けれれているものや罪を背負ったものの全人格やその人の発言を、否定することは、真実を見る目に色眼鏡を掛けることになる。

 

そして、彼等を無責任に否定することは、いつか私達がマイノリティの立場に置かれた時に、無責任に無責任な批判を受けることを意味している。

 

 

それって悲しくないか?

 

だって、誰かがきずついているって事なんだから。

 

 

 

 

以下、アニメ「Cowboy Bebop(カウボーイ・ビバップ)」 セッションXX「よせあつめブルース」より

 

ラフィング・ブルが言った。

「泳ぐ鳥よ、お前の身体が何で出来ているか知っているか。」

 

俺は言った。

「しらねぇよ。きっと、どこにでも転がってる鳥の糞だろうさ。」

 

ブルは言った。

「泳ぐ鳥よ、お前の魂は何で出来ているか知ってるか。」

 

俺は言った。

「しらねぇよ。きっと、どこにでも転がってる綿ぼこりだろうさ。」

 

ブルは言った。

「その答えは、間違っていて、合っている。

お前の身体は、宇宙の全てと繋がっていながら、お前にしか成りえ無い。

お前の魂は、宇宙の全てを含んでいながら、お前でしか在りえ無い。

それはこの私も、そして誰しも。

誰かが憎ければ、お前は自分を憎んでいる。誰かを愛していれば、お前は自分を愛している。」

 

俺は言った。

「俺は誰にも何も感じないよ」

 

ブルは言った。

「それは…この地上で何より不幸なことだ」

 

出演: 山寺宏一, 石塚運昇, 林原めぐみ,多田葵 監督: 渡辺信一郎

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