キュビズムと劇団パラドックス定数「殺戮十七音」
私は、俳句とピカソのキュビズムとの間に、非常に近い関係を感じた。
俳句やキュビズムをはじめとした具象芸術では、作者の中では実際に見えているその感覚を、そのまま吐き出したように表現する。そこには、他の表現作品とは一線を画す価値があると私は考えたので、そのことを記しておきたい。
松田 健児「もっと知りたいピカソ 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション) (東京美術)」
先日、劇団パラドックス定数の「殺戮十七音」を観劇した。
内容は話しの構造が複雑で、正直難しかった。
場と空間と視点と現実・想像が交錯する中で、俳人の登場人物たちは主に俳句で会話をしていくという内容で、客は俳句の雨を浴びることになり、全てを語っていながら語っていない俳句の意味を理解しようとするが、話しはどんどん進んでいくので正直観る方も精神力が必要だった。
ただ、表現というモノの意味を感じさせ、何かを得られた感覚はあった。
そんなモヤモヤっとした感じ。
そんな風に「モヤッとしてるなー」って考えていたら、「そういえば最近もう一つもやっとしたことあったな」と振り返った瞬間、バチっと頭の中で思考がぶつかる感覚があった。
もやっとしたままだったら、たとえ観劇に行ったとしても記事にできないが、せっかくのこの思考のぶつかりを、書き残しておきたいと思った。
最近、仕事で東京造形大学へ行った。その際に、附属の横山記念マンズー美術館も案内していただいた。
そこで展示されていたものは、「新具象彫刻展を出発点とした東京造形大学の出身者たち」
「出品作品に求められた唯一の条件は「具象」であること。」
という展示作品では、主に人の顔や身体の像が展示されていた。
正直その時はピンとこなかった。まあ、先ほど使った言葉だと、モヤッとして終わった。
ただ、その時に初めて聞いた「具象」という言葉が妙にひっかかり、後日調べてみた。
具象とは、「はっきりした姿・形を備えていること。」であり、具象芸術とは、様は見たまんまを表現するということらしい。(ネットで調べた限りの知識だから正確ではないかもだけれど・・・)
ここまで調べても、ピンとこなかったが、もちょっと調べていくとなんとあの有名なパブロ・ピカソのキュビズムも具象絵画だということを知り、ここで例のバチッとした思考のぶつかりがあった。
パラドックス定数の「殺戮十七音」から思い起こされたのは、松尾芭蕉の
荒海や 佐渡(さど)に横とう 天の川
を詠い、この詩を通してこの俳句と、俳句自体について語るシーンだ。
登場人物の一人はこう話す(思い出しながらなので、必ずしも正確ではない)。
「俳句は、その意味の受け取り方は受け取り手に任されている。だから俳句には無限の広がりがある。
芭蕉はこの詩を詠んだとき、本当に砂浜から日本海を眺めていたのだろうか?本当は芭蕉の視点は砂浜よりもずっと高く、空の天の川の辺りからモノを見ていたのではないだろうか。」
これは、芭蕉が空想を詠んだことを意味するのではなく、本当に芭蕉はその光景を見ていた。ただし、それは現実に言葉にしたままの風景がそこにあったことを意味するのではなく、芭蕉にはそう見えていたということを意味しているのだと思う。
具象作品も同じだ。キュビズムは、決して写実的な表現ではないが、しかし、作者は見えたままを表現しているのである。
だから、キュビズム的にモノを表現することと、キュビズム的にモノが見えそれを具象として表現することは、結果として似た作品になったとしても全く意味が異なるということだ。
俳句も、具象絵画や芸術もここに表現としての広さ深さと唯一無二性があると思う。
一般的な表現は、誰か見せる人がいて、見られる立場から表現をすることが多い。歌にせよ、ダンスにせよ、一般的な演劇にせよ。
しかし、俳句や具象芸術は表現の少しアプローチが異なるのだと思う。
つまり、自分が物事をどう捉え、見えているかが出発点であり、終着点であるべきモノであるということだ。
だからこその芸術としての価値が、そこにはあるのだと思う。
つまり、見られることや出来栄えを考えて作られたものではなく、感覚をそのまま吐しゃするように生み出される作品だからこそ、他の芸術や表現では得られないインスピレーションを与えることができるのだ。
それを見る者にとって、「なぜ作者からは物事がその様に見えていたのか」を想像することは、作られた偶像よりもよっぽど人間というものの本質に触れられるのだと思う。
・・・っと、ここまで感覚で感じたことをまとめてみたけれど、ホントかな・・・?
ぼちぼちと検証していくとします。
倉阪 鬼一郎「怖い俳句 (幻冬舎新書)」
高浜 虚子「俳句とはどんなものか (角川ソフィア文庫) 」