池上彰のやさしい経済学 第十四(最終)回 日本はどうして豊かになれたのか?戦後日本経済史
昨年BSジャパンで池上彰のやさしい経済学という番組が放送された。
非常に興味深かったが、残念ながら私の家ではBSが観られないため、1回あたり2時間(講義は90分)、14回連載の番組だが、実家で録画してもらった。
それをやっと少し最初の数回観ることができたため、その講義メモを書いておきたい。
池上 彰「経済のことよくわからないまま社会人になってしまった人へ(海竜社; 増補改訂版)」
以下、講義メモ。
池上彰のやさしい経済学 第14(最終)回 日本はどうして豊かになれたのか?戦後日本経済史
GHQは戦後日本を6年間占領した。
GHQは日本が二度と戦争を起こさないように考えた。その一つが憲法。
経済学的には、一部の財閥が経済を牛耳っていたため財閥解体、労働者が支配者階級に搾取されないために労働組合を組織、大地主から土地を分離させた。
約310万人の軍人が帰還。退役軍人に退職金が支払われた。しかし物は戦後で不足しているため、もうれつなインフレになった。
そのインフレの解消の為、新円切り替え、封鎖預金政策を行った。(1946年2月)
古いお金は使えなくなるから現金は全て銀行に預けるようにさせた。しかし、預けたお金を全ては引き出せなくした。毎月世帯主は300円、家族は100円を限度にしか引き出せなくした。(その他給与は500円までは現金で受け取れた)
■4財閥解体
三井財閥、安田財閥(安田や富士と名のつく企業)、三菱財閥、住友財閥
本家の正社員のボーナスで、東京都内に一軒家が買えた。そのくらい多くの格差社会であった。
その財界追放をした。
源氏 鶏太『三等重役』・・・財界追放が起こった後の社員の奮闘劇を描いた小説
財界追放により、経営者の若返りが起こり、30代~40代の経営者が生まれ、活性化された。
60代、70代の経営者では、自分が引退するまでしか視野が広がらないため、若い経営者の方がより遠い未来まで見据えた経営を行えた。しかし、その経営者の多くは60代ほどまで経営トップと続けたため、自分は経営者の若返りに貢献することはなかった。
日本政府が考えた政策として、
傾斜生産方式(1947年~)・・・まずは産業と人々の生活の安定の為、まずは発電所の整備に全力をあげる政策。
→その電力の確保の為、石炭の生産に全力を入れる。
→石炭を安全で安定して確保するために炭鉱を鉄骨で整備した。
→鉄骨の確保をするために鉄鉱石を溶かして轍を確保することが必要だが、そのためには鉄を溶かすための石炭が必要で、行き詰った。そのため、アメリカから鉄を溶かすための重油を手配してもらい、電力の安定供給ができ、産業が発展した。
中国では1958年~60年に毛沢東が大躍進政策として人民公社をつくり、農家はすべての国民のモノとして全員で農業を行った。しかし、人民公社では農地はみんなのモノとなり、農家の人が行っていたような管理をしなくなったために飢饉に陥った。
一方その後、鄧小平は働いた分だけその一部を資産として取っていいという政策をとり、一気に農業生産高が増えた。
そうしたインセンティブ=やる気をどう持たせるかを考えることが必要。←経済学
1950年8月にGHQは日本の警備力強化の為、警察予備隊の組織を指示し7万5000人の組織ができた。
それがやがて、陸・海・空自衛隊となった。
1950年に朝鮮戦争による特需が日本にあった。
その後、韓国ではベトナム戦争特需があった。
1960年池田勇人首相が所得倍増論を発表した。
・経済の発展のためには道路の舗装が必要である。舗装されていないと物資の輸送が困難のため。(アメリカの道路建設の専門家は「日本に道路は存在しない、道路予定地である。」といった)
・港を整備して、船の物資輸送を行えるようにした。
こうした社会資本を整備した。
・技術開発のために理工系の大学や学部がつくられた。
・1952年~銀行にお金が不足していたため、銀行に資金を集めるため、将来のために貯蓄をしようという貯蓄キャンペーンが行われた。(貯蓄増強運動)
3C・・・カラーテレビ、クーラー、カー
日本は資源がないため、他の国へ進出をしたが、日本国内の経済が発展すれば、他国を侵略するようなことは考えなくなるとアメリカは考え、1ドルを360円という円安に設定をし、輸出が増した。
農家が豊かになり、農協が主催する海外旅行ブームが生まれた。しかし、海外のマナーを知らない日本人がいたり、ブランド品を買いあさる日本人は世界中でひんしゅくを買った。
大卒の初任給が2万5千円の時代に10万円の海外旅行があっという間に完売していた。