豊洲移転延期に反対する人の盲点
小池知事が築地市場から豊洲市場への移転延期を決定したことに対し、反対意見(要は、早く移転すべきと言っている)を述べている人も多くいます。私はそうした主張について理解できるし正しいと思えるところもありますが、一方でそうした主張者の盲点となっていると感じるところがあり、その点について私なりの考察を述べたいと思います。
まず、豊洲問題を考える際には、問題を以下の4つに分解して考えるという構造把握力が必要です。
①豊洲市場の利便性の問題
②公費の適切な使われ方の検証
③環境安全対策
④情報開示方法の不備
報道では、これらがごっちゃになって伝えられていて、言う側も聞く側もそれぞれを分けて捉えないと議論が全然かみ合いません。
上記の前提を踏まえ、移転延期へ反対している人たちの主な意見は以下の通りです。
・豊洲が危険というが、十分に対策はされており、問題ないという専門家の意見もあるので移転すべき。
・豊洲が危険というが、築地の方が危険であるため、移転すべき(もしくは築地の環境調査と比較をして判断すべき)。
・延期をする分コストがかさみ、その分は都民が負担をすることになるため、延期はコストの無駄である。
・「誰が悪かったのか」といった犯人捜しにコストやリソースをかけても仕方がない。
・そもそも、環境基準自体が過剰であり、それを基準に移転の是非を決めるではない。
・オリンピックに環状線の工事が間に合わなくなる
先ほど豊洲問題の構造を4つに分けましたが、ここでは①豊洲市場の利便性の問題と②公費の適切な使われ方の検証はさらっといきます。
①豊洲市場の利便性の問題については、意見延期反対派の方から特段の意見というか提案はほとんどお見受けできませんが、延期することによって、内装の改修などで利便性を向上することができる余地が生まれるかもしれません。
②公費の適切な使われ方の検証については、延期をすることによって、結局はコストがかかるという主張が考えられます。
しかしながら、悲しいかな今の政治には公金の不正利用問題を見ても自浄作用が十分に働いているとは言い難い現状があります。その中で小池知事が「築地移転は一度立ち止まって考える」「制作予算の見直し」と公約を掲げて当選をした以上、やらないわけにはいかないという状況があります。
その状況の中、豊洲問題をいわばやり玉に挙げて公金の適切な使われ方についての検証と改善を図ることは、豊洲問題という数ある問題の一つだけの視点ではなく、広く東京都が今後行うすべて政策について活かされるという意味で価値のあることだと思います。
さて、私がこの記事で一番書きたかったことは、移転延期反対派の人の主張も集中している③環境安全対策と④情報開示方法の不備に関連する考え方です。
このことについて考えるうえで、必要な概念として我々が普段何気なく使っている「安全」と「安心」の言葉への理解です。
まず「安全」とは何でしょうか?
我々は安全だと思って、自動車や飛行機に乗りますが、一方で、自動車も飛行機も事故が起こり時には死ぬこともあることを知っています。それでも自動車や飛行機に乗るのはなぜでしょうか?
それは、自動車や飛行機に乗ることで得られる便益(早く快適に目的地までつけること)が、その低い確率で起こるリスク(事故に遭って怪我をしたり死ぬこと)と比較した時に便益が勝る状態を安全と考えます。
つまり、安全とは、リスクを取ってでもそこから得られる便益を得たいと思える状態を指します。
それはなぜかというと、100%の安全なんてものは世の中に存在しないからです。
そうしたリアリスティックな概念であるため、英語でもSafeという単語で欧米人とも共通認識を持つことができます。
一方で「安心」とは何でしょうか?
また、「安心」という英単語はあるでしょうか?
安心とは恐らく日本独特の概念であると思います。
安心とは現実にそんな状態はあり得ないかもしれないが、それでも100%絶対に大丈夫であると思える状態を指します。
私は日本人の事「安心」という概念を大切にすることが、高いホスピタリティや技術力を生み、それが今も世界中から日本製品が評価されている源になっていると感じています。
私たちは平気で正反対の概念である二つを「安心で安全な・・・」と並べて使いますが、それぞれの意味について改めて理解を深めるべきだと思います。
そして、私が本文の冒頭に申し上げた、移転延期反対派の方々の盲点とは、この「安心」という日本人がこれまでに大切にしてきた概念についてです。
実際、移転延期反対派の方々の主張はほとんどが「安全」についてです。
私は移転延期反対派の方々の延べられている客観的なデータ等をもとにした主張は間違っていないし、正しい部分も多いと思います。
しかしながら、これまでの豊洲市場移設に関する情報開示方法が適切でなかったことや、議会における決議プロセスが不透明であることなどを鑑みて、多くの人々が都がこれまでに開示してきた情報を信用し、納得するという「安心」を得られる状態にあるかと言えば、そういうことはできない状態であることは間違いないのではないでしょうか。
小池知事も先の地下室が見つかった際の記者会見では、「豊洲の環境が安全かどうかは専門家に改めて確認してもらうが、少なくとも情報の開示方法が誤っていたことは間違いないので、それを訂正したいと思う」という表現で述べていましたが、情報公開体制を整えて、都から発する情報についての信頼してもらえる体制を取ることは必要であると思います。
また、先の都知事選での都民の声とは、信頼でき、安心できる都にして欲しいというメッセージであったのではないでしょうか。
そう考えた時に、「いったん立ち止まって考える」ことには、損得勘定以上の意味があると言えるのではないかと思います。
100%全員の人が安心することを目指すことは難しと思うが、民主的に多くの人が安心できるくらいの組織体制と情報公開体制を構築することは理想主義なのでしょうか。
もしそれが理想主義的であると思われるのなら、「政治家や行政がそんな風になれるわけないじゃん」って言っている人たちよりは、理想主義的でありたい。
「没落する日本 強くなる日本人 ―弱者の条件・強者の条件」 小笠原 泰 (著) さくら舎