佐野氏批判からみるいじめの構造と対策
2015年9月1日、佐野研二郎氏のデザインした2020年東京五輪エンブレムの使用中止が決まりました。
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もうこれ以上、佐野氏批判はよくないですか?十分だと思います。
「悪いことをしたんだから、なに言われても当然」ていう人は、いじめを正当化しているのと同じ。
それとも彼が自殺をしたら満足ですか?
私は絶対にそんなことして欲しくないという思いで、この記事を書くことにしました。
「誰ひとりとして悪を欲する人はいない」というソクラテスの言葉があります。
いじめは客観的には酷い、許されない行為ですが、やっている当人にとってはそれ相応の理由があるわけです。
たとえ強盗だって、役人の不正だってその人なりの悪事を働く理由があるということです。
だから、いじめをしている人は、他のいじめ事件を見ても平気で「酷いなあんなことして」と思うし、パワハラをして部下を追い込んでいる人は他の部署で同じようにパワハラにあって辞めてしまう人を見て平気で「パワハラなんて酷いね」と言えるわけです。
本人には本人なりの正義がありますから、自分がしている行為に対しての悪気はないので、悪気なく自分のことを棚に上げられるのです。
では、加害者に自覚がないのであれば、その負の連鎖をとめることはできないのか?
いじめやパワハラを止める事はできないのか?
私は一つだけその負の連鎖を止められる方法を知っています(怪しいセミナーの勧誘ではありませんよ)。
それは、感性の声に耳を傾けることです。
相手は今、どういう気持ちかを想像するのです。
今回のことで言えば、「限界状態」と表現されている佐野氏の気持ちです。
もっと正確に言えば、恐らくどんな人も相手の気持ちを心の感性では、無意識で感じ取っているはずです。
だから、自分の感性に耳を傾ける。
そのために、感性に蓋をしている、理屈や理性を自覚するのです。
例えば「佐野氏は批判をされて当然だ、なぜなら○○だから」というあなたにとって正しい理屈はそれはそれであっていいし、あって当然です。
ただ、その理屈(言語化できること)は、本来あなたの心で感じている感性(言語化できないこと)に蓋をすることがあると自覚をして、理屈や理性と付き合うんです。
相手の気持ちを心から感じることができれば、たとえそれが自分にとっての正義であったとしても、相手が傷つく行為をすることを抑えることができます。
なぜなら、傷つける本人にも、傷つけられている人の痛みを感じ、痛みが伴うからです。
理屈や理性が感性に蓋をしている状態では、その痛みを感じることができないので、当人にとっての正義であるいじめやパワハラは止める事ができないのです。
だから、相手の気持ちを想像する感性の声を聞こうよ。
最後に、スタジオジブリの映画「もののけ姫」のなかで、この記事で書いた状態を見事にあらわしている言葉を紹介します。
「お前たち生き物でも人間でもないもの連れてきた」
私は生き物と人間をこう定義しています。
生き物の本質は感性。
人間とは、感性に人間特有の言葉でモノを考えるという理性が加わって「ヒト」は社会的な「人間」になっている。
そう考えると、もののけ姫のこの台詞は、その生き物の本質である感性がなく、理性だけの存在という奇妙だけれども、現代に溢れている存在を表現しているのだと思います。
心を理性で押さえつけ、理性だけで行動する存在。それをもののけ姫の劇中では、猪の皮をかぶり、猪の血を塗りたくった集団という醜い姿で表しているのではないでしょうか。
心を裸にすると、辛いことや悲しいことが多すぎて耐えられないから、いつでも感性のみで生きる必要はありません。
ただ、理性の仮面を被って生きていることを自覚すること。
その意識がさまざまな社会問題を解決する糸口になるのではないでしょうか。
イガワヒロト
「もののけ姫」はこうして生まれた。 [DVD] 宮崎駿 (監督)
「いまこそ、感性は力」(致知出版社) 行徳 哲男 (著), 芳村 思風 (著)