「愛は憎しみより美しく、理解は怒りより高く、平和は戦争より高貴だ」
by ヘルマン・ヘッセ
いい言葉ですね。
今日はこのヘッセの言葉について私なりに考察したいと思います。
【理解は怒りより高く】
「理解」をする上で大切な事は、人は少なからず必ず偏見を持っていると自覚をすることだと思います。
人には一人ひとり違いがあり、それぞれの見方で物事を見ているため、偏見自体をなくすことは不可能です。
だから、「自分も偏見を持っている」と自覚することで、相手は自分とは違って当たり前だと考えることができ、「自分の事は相手に理解されない」とか、「相手のことは全く理解できない」とか「言っても無駄でしょ」のような、理解を妨げる「諦め」に蝕まれることを回避することができるのです。
そう考えると、「怒り」とは相手を理解することへの「諦め」を正当化し、自己の偏見(自分自身のものの見方、価値観)を正当化するために生み出す感情と言えます。
【愛は憎しみより美しく】
同じ人間はいません。
だから自分と相手では物の見え方も見方も違うので、完全に相手のことを分からないし、分かってもらえない。
けれど、それでも、できるだけ分かろうとするし、分かってもらおうとする、相手から学ぼうとするし、相手に何かを伝えたいと思うこと、それが「愛」なんだと思います。
人は憎悪が膨らむと、相手を傷つけようと誹謗中傷したり、攻撃してしまいますが、それも何かを相手に伝えたいからこその行為ととらえれば、「愛」の要素の一つであるといえます。
とはいえ、「愛は憎しみより美しい」ことは間違いありません。
逆に言えば、「憎しみ」はどんなに理屈をつけて正当化しようとも、無粋でかっこ悪い、美しくなく、望んで選ぶべきものではないのです。
だから、愛の反対は憎しみではなく、「無関心」なのです。
【平和は戦争より高貴だ】
人々が「怒り」という言い訳に支配されず、相手を「理解」しようとして「愛し」、「憎悪」の醜さを恥じれば、「戦争」の体験をしなければ「平和」の高貴さを理解できない愚かな私達人間社会から、争いをなくすことができる。
「愛は憎しみより美しく、理解は怒りより高く、平和は戦争より高貴だ」
二度の世界大戦を経験した、偉大な表現者であるヘルマン・ヘッセのこの言葉のコンテキストを今の私というフィルターで読み取ってみた。
車輪の下 (新潮文庫) ヘルマン ヘッセ (著), 高橋 健二 (翻訳)
超訳 ヘッセの言葉 ヘルマン・ヘッセ (著), 白取春彦 (翻訳)(ディスカヴァー・トゥエンティワン)