千と千尋の神隠しから考える「ゆとり教育」反対への反対意見その2
(2011-02-17はてなダイアリーブログ掲載記事を加筆修正)
「千と千尋の神隠し (通常版) [DVD] 」
まず初めに、前回の連載記事の最後に投げかけた問いを振り返りたい。
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挨拶、礼儀、死ぬことと生きること、感謝、何が正しいかを自分自信で考えること(正義)、神への畏れ、人間の醜さ、助け合う事、他人の気持ちを思いやること。
我々はこれらの大切なことを子どもたちに果たして伝えられているのだろうか。
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答えは否である。
その原因の一つに、我々がこれらを上の世代からきちんとは伝えられていない事があると思う。
そしてそれは核家族化など、社会環境の変化の中で人間関係が薄れてきてしまったからなんだと思う。
たとえ醜い己の姿を鏡に映し出さなければならないとしても、問題に向き合わない限り、物事をカイゼンし、問題を解決していくことは出来ない。
我々は「いいわけ」をしてこれらの過ちから逃れるのではなく、過ちを認め、自らこれらを学び、そして子ども達に伝えていかなくてはならない。
なぜなら、これらの大切なことは、「幸せ」自体は生み出さないだろうが、「幸せだと思うことのできる心」を創り出すことができるからである。
ここで、その「いいわけ」として最近非常に頻繁に用いられている「ゆとり教育」や「ゆとり世代」という言葉について考えてみたい。
ゆとり世代とは、一般的には1987年4月2日以降に生まれた世代前後(つまり順当に行くと2010年3月大学卒業生以降)を表すことが多い。
ゆとり教育は週休5日制、新学習指導要領による学習量の軽減(有名なのはπの3.14を3と教える)、総合の時間などの、小中高校などの教育方針の変更を指す。
現在よく言われている「ゆとり世代」という言葉は、私は単なる大人たちの「いいわけ」だと思っている。
我々がそれらを子どもたちにきちんと伝えられていないことを「ゆとり教育」のせいにして、自分たちを正当化させたいだけなのだ。
確かに、今の若者世代を見ていると大人しい、無気力、常識が欠けているなどと感じる事はある。しかし、その様な言葉を使って、自分達がその若い世代へそれらを教えられていないことの非から目を背ける風潮は間違っていると私は思うのである。
繰り返しになるが、何かを改めるにはまずその問題を認識し、受け入れることが必要であるからだ。
採用コンサルタントとして企業の採用現場にいた時も「ゆとり世代」という言葉をよく聞いた。
それはしばしば新入社員や就職活動生達を揶揄(やゆ)する時に用いられている。
そしてそれは得てして学力の低さではなく、コミュニケーション能力の低さの代名詞の様に使われている。
→参考記事「日経BIZアカデミー BIZCOLLEGE 【1】ゆとり世代がやってくる」
では、果たして「ゆとり教育」が本当に、今の子ども達のコミュニケーション能力低下の原因なのであろうか?
私は、これにより勉強する時間が減り、学力が以前に比べて下がったという批判ならまだ分からなくはない。しかし、コミュニケーション能力の低下をゆとり教育と結びつけることは間違っている。
むしろ、総合学習が増えたり、少子化で一クラス当たりの生徒数が減り、学校教育としてはコミュニケーションを育ませる体制は以前よりも充実しているからだ。
だから「ゆとり世代」という言葉を使い、我々の世代及び子どもたちが「生きる上で大切なこと」を身につけられてないことを「ゆとり教育」のせいにすることは間違っていると考えるのである。
また、私は学力の面でも「ゆとり教育」に罪の全てを着せることはできないと思う。
(第3回に続く)
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第3回では、この連載のまとめとして、ゆとり教育批判に対する批判の具体的根拠を示し、
この記事を結びたい。
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監督: 宮崎駿 出演:田中真弓, 横沢啓子, 初井言榮, 寺田農, 永井一郎
「天空の城ラピュタ」